※【実際に〇〇する】と書かれていたら、実際にしてみてください。実際に行うと、お伝えしていることが分かりやすくなります。
――「音」とは何ですか
「音」というのは、名称ですね。「音」と呼んでいる実物は、【実際に拍手する】です。「パンッだ」「拍手だ」「音だ」「いい音だ」「聞こえた」「拍手した現象だ」「私が聞いた」などは、【実際に拍手する】に対して思ったり考えたりした内容です。
このように、「実物」と「実物に対して思ったり考えたりした内容」とは違うものです。そして、実物に対して思ったり考えたりできることが、真相とは何か、自分とは何か、という迷いを生じさせている原因なのです。
補足しておきますと、実物と実物に対して思ったり考えたりした内容とは違うもの、ということであって、思ったり考えたりしてはならない、ということではありません。
――なぜ、実物に対して、思ったり考えたりできることが、迷いを生じさせるのですか
実物に対して思うということは、どのようなことかといいますと、実物をあると認め「対象」としたということです。対象としたということは、実物に対して思っているが、思っていることは実物自体ではないということです。そして、実物自体ではない、実物について思ったことを、本当のことのように思ってしまうと、迷いが生じるのです。なぜ迷うかといいますと、実物自体以外に本当の実物はないからです。ここでの迷いの意味は、実物以外を本当と思うことを言っています。
例えば、【実際に拍手する】を対象として「いい音」と思った、そして、対象について「いい音」と思っていると、思っていることが意識されているので、「実物」は無視され忘れられてしまい、意識している「いい音」が実物のように思えるということです。このように迷うのです。このようなことは日頃、知らぬ間にしばしば行われていると思います。
このような迷いが起きるのは、本物である実物をよく知らないからです。
――実物はどうなっているのですか
実物は、【実際に拍手する】です。実物自体が実物の音、つまり本当の音です。このとおりですから、過不足なく明確です。解釈も不要です。本当か否かと疑える余地もありません。他に答えを探す必要もありません。迷いようもありませんね。そして「音だ」などの思いも、実物にはくっついていないですね。
そして、実物は、一瞬前にあるわけでもなく、一瞬後にあるわけでもなく、必ず今あります。ない時には一切どこにもありません。今あるだけで、増えることも減ることもありません。
さらに、実物は、【実際に拍手する】とあっても、【実際にモノを叩く】とあれば【実際にモノを叩く】となってしまい、「固定的な実体」はありません。今ある実物だけがあります。【実際に拍手する】とあると必ず【実際に拍手する】とあるのです。絶対的なのです。ゆえに、真相なのです。
――【実際に拍手する】が真相なのですか
はい、そうです。【実際に拍手する】とあると【実際に拍手する】です。右を向いたら即右の実物の内容です。実物についてお伝えしたとおりです。そして、さらに説明するなら、「私」が居て、【実際に拍手する】という「対象」があるのではなく、【実際に拍手する】のみあるということなのです。だから本当に絶対的なのです。真相なのです。実物自体しかないのですから。
――「私が居ない、対象はない」とは、どうゆうことですか
【実際に拍手する】とあると【実際に拍手する】のみあるということです。でも、そうは思えないと思います。なぜ、思えないかというと、自他があると思い込んでいるからです。「対象」や「私」は、物や事を認識すること、あると認めることが、思わせています。物や事を認識すると、認識した物や事があるように思え、認識した物や事だけが意識され、意識した物や事を「対象」と思います。加えて、身体を認識したことで「私」が居るように思え、自他があるように思うのです。
先ほど、実物をあると認め、対象を思い対象について思うことが、実物とは別の本当と思えることを思わせ、迷いをつくると、お話ししましたが、もし認識がなければ、このように迷うことはできないということになりますね。
どのように、自他を思うのかというと、【実際に拍手する】とあると「拍手だ」と思い、拍手だと思うと「拍手というものがある」ように思い、拍手というものがあるように思えると、拍手を「対象」と思い、「他」があるように思い、「私」が他を思っていると思い、自他があるように思うのです。
今話しをお聞きになっている時には、自他があるようには、思っていなかったのではないですか、いかがでしょうか。ですので、自他を思うのも思っている時だけ、自他があるように思っている、自他は思いなのかもしれない、ということを少しは分っていただけたのではと思います。
――考えとしては分かりましたし、そうかなとも思いましたが、納得はできないです
そうですね。そうおっしゃるのが当然です。これが思いにすぎない、ということを本当に納得するには、考えでは無理かもしれないと分かることが、とても大切なのです。なぜ大切かといいますと、考えで追及することがやめられて、修業に専念できるからです。そして修業ができれば真に納得すること、悟ることができるからです。
私事ですが、考えで答えを得ることしか知らなかった頃は、真相とは何か、自分とは何かと、考え続け探し続けていました。そして、真相とは【実際に拍手する】だと知ってからも、しばらくの間、考えで納得しようとしていました。でも、ある時、考えでは納得できないと分かり、考えで納得することをやめ、修行に専念することができるようになりました。そして、先ほどお話ししたような真相が明らかになりました。このようなことがありましたので、大切なのです、とお伝えいたしました。
――悟るって何ですか、「音」で悟ったとお聞きしましたが
悟るとは、【実際に拍手する】ということです。実物ということです。実物についてお伝えしたとおりのことです。
「音」ではなく、目覚まし時計の秒針の「カチッ」という実物で、真相とは何か、自分とは何かという迷いが、本当に終わってしまいました。なぜ終わってしまったのかといいますと、「カチッ」とあったら「カチッ」だったんです。「カチッ」のみで、他に何もないのです。実物自体のみで、聞いている私も、音という対象もありません。本当に「カチッ」以外何もないので、真相なのか否か、本当なのか否かというような疑いも起き得ないのです。
「カチッ」しかないので、「私」や「対象」というのは、思いだったということが、理論や解釈ではなく、事実として明確になってしまうのです。
このように、本当にハッキリするには、【実際に拍手する】を認め対象とする、認識することが一旦止まないと、実物を捉え「いい音」などと思ってしまうので、実物が実物どおりにハッキリしないのです。認めることが止んでいるから、「カチッ」というきっかけで「カチッ」そのものが、明確に寸分たがわずそのもののとおりに「カチッ」っと露わになるので、実物が実物どおりに本当にハッキリするのです。
カチッのみだった、真相が分かった、悟りを得た、私が消えたなどは、考えの内容で、実物が露わになった内容ではないので、ハッキリしません。
また、悟った状態という何かがあるように思うかもしれませんが、状態というのは、ある事実を捉えて、考えで思い描いたものですので、このようなことはありません。
得ることでも成ることでも状態でもなく、本当に【実際に拍手する】なんです。
――悟るとどうなるのですか
【実際に拍手する】とあれば【実際に拍手する】。前を見たら前の実物の内容。思いや考えも同じです。「何食べようかなぁ」と思えば「何食べようかなぁ」です。このように、今の実物の内容しかないことがハッキリしたのですから、真相とは何か、自分とは何かを求めることがピタッと止んでしまいます。不思議なものです。今ある実物の内容のとおりで、固定的な実体はありませんので、悟った状態を維持するなど、何か構えていなければならないようなことも起き得ないです。ハッキリした後、悟りが深まるとか、戻ってしまうこともありません。【実際に拍手する】は【実際に拍手する】ですからね。既に露わだったということです。
――「カチッ」という、音と呼んでいる実物でしか悟れないのですか
いいえ、そのようなことはありません。「カチッ」っと実物の内容が露わになりハッキリしたのですから、他の実物の内容でも、実物の内容が露わになればハッキリします。
「カチッ」は聞こえている実物の内容です。他の実物の内容は、見えている実物の内容、体感の実物の内容、味の実物の内容、臭いの実物の内容があります。これらのどれでもハッキリします。
――修行というのは、難行苦行なのですか
いいえ、そのようなことはありません。【実際に拍手する】は【実際に拍手する】です。ですから、理解ではありませんので、理解することも不要ですし、分かるということでもありませんので、分かろうとすることも不要ですし、何か別の知識を得てから知ることでもありませんので、知識も不要ですし、何か特別な状態をつくらなくても【実際に拍手する】ですから、状態をつくることも不要です。
もし、真相とは何か、自分とは何かをハッキリさせたいということがありましたら、今お話ししたように、実物の内容=真相の内容=悟りの内容ですから、方法や手段は不要です。ですので、目を開けて、ただ坐るだけです。
――「ただ坐る」をもう少し説明してください
ただ坐るというのは、方法や手段を用いることなく、ただ坐っているということです。ただ坐っていると、自ずとある実物の内容があります。自ずとある実物の内容とは、五感、思い、感情、考えと呼ばれている実物の内容のことです。
例えば、坐っていると、見えている実物の内容だったり、聞こえている実物の内容だったり、思っている実物の内容だったり、考えている実物の内容だったり、思っていたと気づいたり、気づかなかったり、考えていたと気づいたり、気づかなかったり、などの様々な内容があります。このような、自ずとある内容のままにいるということです。
また、多くの方が、坐っている時の思いや考えを気にされるのですが、思いも考えもそのとおりの実物ですし、「思っていた」「考えていた」と気づいたら、当の思い、考えは終わっていますので、終わったものに、何もする必要はありませんので、そのままいればよいです。
このように、ただ坐れるようになれば、確約はできませんが、ハッキリすることは難しくないです。