参禅記

ハッキリされた方の修行する上での工夫などの様子です。何かの参考になればと思います。それと、誰でも悟りは可能と知っていただけたらと思います。

Dさん

 自分が何で苦しいかがわからなくて、子供時代に何かあったのか、親の影響なのかなどと思い、色々なセラピーを受けたりしていた、楽にはなるのだけれど、苦しみは残り完全には解決しなかった。

 完全に解決する答えが欲しくて、いろいろ探し求めた。〇〇瞑想したり、坐禅風なこともしたり、宇宙と一体となると言われてもわからないし、どうしたらいいかもわからないし、このような時に、いつものようにネットを探していたら、無為真相に出会った。

 無為真相のネット禅会にはじめて参加した時、語られる話がほんとうに一貫していて、全くぶれることがなく、曖昧さもなく、こんなにぶれることが無く語られることを聞いたことがはじめてで驚いた。なので、聞いてみよう、とりあえず参加し続けてみようと思った。伝えられることも、特殊なことはなく、このままのことなので、まぁそうだなぁと思った。

 考えの中に答えがあると思って来たけど、示されると、そうしかないと思えた。でもわからなくなると独参すると、「わからない」は「わからない」でしょ、と言われた。でも、わからないから聞いているのにー、となった、でもそのうち、まあ確かに「わからない」だけだなぁと思えた。

 坐っていると様々な思いがあるので、昔聞いた、「思いはモンキーマインドだから今に居るようにしなさい」とかが気になったこともあった。でも坐ることと独参していくうちに、思いを気にするような度合いが減って行った。坐ることと独参することは、ほんと大切だと思った。

 坐りはじめの頃は、ただ坐ることが暇つぶしのように思えて、病院で待っているみたいで、こんなこと何になるのかと思うことや、何か秘密があるのではとか、集中しなくてもいいかとか思うこともあった。疑問がある時は独参したし、無くても独参した。そうしていくうちに、疑問への疑問感が減って行った。

 坐禅する前は、気にかかることが起きると、それをそのままにしておいたらどうにかなっちゃいそうな気がして、考えで掘り下げて、どうにかしようとしていたけど、ある時から坐っていると忘れてしまうので、坐禅は薬だとも思ったりした。このようなことがあると益々ただ坐るだけになっていったように思う。

 坐っていて、何か上手くいっていないと思うと、坐禅がめちゃくちゃだと思ったけど、そのまま坐っていた。

 印象に残っているのは、提唱の時に、伝えている人は重要ではない、実物が先生ですよと言われたとき、本当にそうだなぁと思った。

 ネット禅会での提唱(話し)は何度も同じことを聞くことで、どうしてもはっきりする前は、これでいいのかなどと揺れるので、坐禅修行をしていく上で支えになった。

 坐る時間づくりのためにした工夫は、坐禅し始めの頃は、1日4~5時間坐ろうと意気込んだけど続かなかった、家族もいるし仕事もしているし、生活のスケジュールとの兼ね合いで無理のない時間がわかってきて、平日は1日3時間くらい坐るようになった。仕事で3時間坐れない日もあったけど、以降はこのペースを続けた。家族には修行したいと伝え(ある意味宣言して坐る環境づくりにもした)、家族が協力してくれたのも助かった。

 ネット禅会に毎週土日に参加することで、参加していくうちに知っている顔が見えると、言葉を交わしたことはないけれど、一緒に悟りを求める仲間がいると思えて坐る励みになった。それと、坐禅修行はマラソンみたいなので、自分一人で坐っているとやはり怠けてしまう時もあり、ネット禅会にとにかく参加することで、坐るという習慣作りにすごく役立った。

 毎回参加するごとに独参をした、初めの頃の独参は色々とああかこうかと質問したけど、ある時から、「独参に来ました」「何かを示される」で終わりになっていった。このような独参になってからも、参加の度に独参はしていた。

 ある時、”グワッ”といきなり現れて。

 今は、本当に今の事のみで、人間関係とかで喜怒哀楽があっても、知らぬ間に忘れていることも忘れていて、安心や本当のことを探し求めることもすっかり消えてしまった。

Cさん

 昼食の時に、”おにぎりの味はどうですか?”と質問されたので、「おにぎりの味がします。」と答えたら、

”本当にそうですか?”と、再度聞かれたので、そこで口の中を味わいました。

”事実の味と味の感想とは違う”みたいなことを言われ、「ああ…そうか…」となり、

そこから訳もわからず、どういうことなのだろう?と、寝ても覚めてもとにかく気になり、

夜もおちおち寝ていられなくなりました。

 無為真相のホームページの”禅・坐禅…”の部分をいつでも読めるようにスマホで写真に撮り、

お昼休みなど何度も何度も読みました。普勧坐禅儀も読みました。

そして理解の整理をしてみたのですが、分かったような余計に分からないようなで、満足しませんでした。

 先ずは、伝えられた通りにしょう!と。「してはいけないこと」を徹底的に知ろうとしました。

それが、普勧坐禅儀にあった、”万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫かれ”でした。

 坐禅会に参加するようになり、これまでの日常で聞くことのなかった”悟り”と”修行” に戸惑いつつ、修行をされている方々の邪魔にはならぬようにと思うほど、そのくらい修行をしているつもりはありませんでした。

思想や哲学、宗教宗派で語られることではなく「本当のことが知りたい」その思いと、

そうせずにはいられない衝動のようなものだけでした。

 気づいたら坐っていました。形ではありません。乗り物を乗り過ごしたり、お皿を割ったりしました。

(このようなことが起きないと修行にならないということではありません)

それでも、どこから湧き上がるのかわからない、内側から突き動かされる思いが上がるので逃げ場もなく、

時間の長短関係なくひたすら坐りました。

息子たちから「また、かたまってる。坐禅にはまってるなー」「母ちゃん、頼むから頭だけは丸めないでくれ!」と、親子で大笑いしたほどです。

 独参で、「ずっと…する…」と質問した時に、”ずっとはないですよ。”パンはパン、パンパンパンは3回ではありませんよ”と、言われた時、

「あーもうムリ!パンパンパンは3回だしー」と心の中で叫んでいました。

何を聞いても、”とにかく坐ってください””そのうちはっきりします”

それしか言われなかったので、ヤサグレつつも、自覚された方がそう言うのだから、

とにかく坐ろうと改めて没頭していきます。

 「私はこっち、あなたはそっちこんなにはっきりした思いがあるのにわかるのか?」と

疑問ともどかしさでいっぱいになった時、

「あっ!わからないことは、わかるまでわからないんだ!!」となり、諦めました。

とにかく万事を休息して坐ろうとなりました。

 で、ある時、坐っていたら、いきなり”カーン”てして。

 ハッキリしてみると、「案ずるより坐るが易し」とにかく何もしないで(正しく)坐るだけです。作仏を図ること莫かれ。です。

 今の内容ではなく、頭の中の別の何かを求めやすいなーと思いますが、それでも本当に何もしない。何もいらないです。祖師方の言われている通り、知識も要らず、距離もなく、何かを得たのでも何かに成ったのでも至ったのでもなく書かれている通りでした。坐禅は、代々木坐禅会しか知らないです。

Bさん

 真実を知りたい、ある悩みを解消したい、以前何もしない瞑想をしていて、目に前のことが急に現れたような体験をした、この時は、ただ居ることに何かあるかもと思ったけれど、それ以上は追求もせず終わってしまった。そしてしばらくして、坐禅に興味を持ちはじめ、坐り方を求めていた。代々木禅会の前に他の禅会の経験あり、そこでは何が何だかよくわからず興味が持てなかったが、でもそこに参加していた人から強く代々木禅会を紹介され、行くことにしました。

 代々木禅会に初めて行った時、真実とは何かの説明で、スリッパの表と裏を示され、「裏でも表でもない」と言われ、比較できず、わかったような、わからないような感覚になり、スリッパの表と裏を示しながら、このことがハッキリすればいいだけなのです。だから何もする必要がないと言われ、知りたい気持ちが強くなり、坐り始めました。

 2回目の参加の時に、正しく座れているかが不安になり、もうやめようかなと思っていました。この時、どのように坐っていますか?と聞かれ、答えたところ、それでいいです。坐れています。と言われ、私にもできているし、坐禅への間違った先入観があったこともわかり、さらにやってみようという意欲が出てきました。独参の時にピンクのタオルを示されてピンクじゃないと言われ、んーっとなり、何も言えず、でもこれがハッキリすればいいのだろうと思いました。また、参加していた人から強く独参に行くように言われたことも後押ししてくれた要因になりました。

 疑問が出たら即独参で質問し、色々質問するごとに、それは要らないと言われ、しなくていいことは、しないようにしにしました。時間の長短や姿勢にかかわらず坐りましょうと言われ、伝えている人が、そう言うのだからそうしましょうと思い、仕事の合間など、少し時間があれば、本当に何もせずただ坐り過ごしていました。

 そしたら、思わぬ時に、”ガァ~”ってして。

 ハッキリしてみると、本当に言われたとおりにしたら、言われたとおりでした。

​Aさん

 いつ至るのかわからない、それでも、事実実物を頼りに坐る。

 悟れるのか?!ふとよぎり不安になる。悶々とす・・・
それでも、坐る、それしかできないし、そうすれば必ずという思いから。

 坐りながら何かを企てることは無駄と気づく、そして本当に坐れはじめる。可能性を実感し始める。振り向くことなくまっしぐらに坐り始る、どこでもいつでも。
電車の中。トイレ。風呂。何かと何かの合間・・・。

 修行は即今のみだった。実物のみだった。初めからということも、元々ということも無く。「あ」は「あ」だった。

5悟り◀︎