真実がわからなくなった原因と思考で真実を知ろうとすることが止まない原因
実物自体(固定的な実体なく必ず今の実物自体になってしまう)のみという真実がわからなくなったのは、認識機能の働きにより、主体と客体があるように思い始めたからです。
認識機能とは、物や事を認め有る(居る)と思わせる働きのことです。時に、ずーっと(常に)有る(居る)ように思わせる働きをします。また、今無い物や事を今有るように思わせる働きをします。
子育てをしたお母さんに聞いてみたのですが、認識機能は生後数か月ぐらいから機能し始めるようです。認識の機能が働く前は、おかあさんや自分が居るとか居ないとかが無い、分らなかったはずです。
したがって、認識機能が働き始めてから、物(対象)が有ると思い始めたということがわかります。
今実際に何かを認識してみてください。例えば、「スマホが有る」とかです。認識により、(スマホが)有ると思えると、有ると思った物(スマホ)や事が対象「客体」になり、思っている自分「主体」が有るように思います。これが、他が有ると思える分離感をつくっています。他が有る(分離している)と思っているだけで、今も事実は主客なく、実物自体、「あ」と言ったら「あ」のみということです。
分離なく、私という主体無く、実物自体「あ」のみで他に何もないなら、実物自体が真実ということになり、これから真実を探求する必要や真実に成る必要が無いという事です。
また、対象が有ると思えると、思った対象に関して、様々に無数に無限に思える、考えることができます。このため、真実について、何が本当なのかが増々わからなくなります。生活していくには、スマホ選ぶにも対象を認め対象について考え判断することは必要ですので、認識してはいけない、認識しないようにした方が良いと言いたいのではありません。真実がわからなくなった理由について述べています。
真実について思考で納得しようとし続けてしまう原因①は、認識機能が活動を始めた以降、他が有ると思い込んでいるので、他について考えてわかろうとする方法以外思えなくなります。考えてわかろうとすると、思ったり考えたりした内容のみを知らぬ間に意識するようになってしまい、なので、わからなくなると更に情報を求めて思考でわかろう、納得しようとし続けてしまうのです。
さらに、今までの経験で、思考して答えが得られる経験をしているので、真実(悟り)に関しても、思考で答えを得ることを続けてしまうのです。でも、真実=実物「ニャー」は、今まで述べたように、会計システムのような人間が作ったものではないので、思考では永遠に納得できないという事です。付け加えるなら、真実について納得しようとすると、真実について考えるので真実が対象になり、永遠に考えでは真実自体を自覚できないということになります。真実は向こう、自分はこっちという平行線のままになります。
原因②は、いつ認識が機能し始めたのかを覚えていないので、認識していない時期のことがわからないので、認識して思ったことを本当のことのように思うようになってしまったとも言えます。
原因③は、実物自体を示されたことが無い為に、実物自体がどうなっているかに意識を向けたことが無いからです。この為、更に思考での探求に終始してしまうようになります。私自身、ある時期まで、思考での探求をしてきて、思考での探求では本当の納得は得られないとわかり始めた頃に、書籍「もう迷うことはない」を読み、実物が示されている内容に出会い、初めて実物自体に意識が向き、実物がどうなっているのかを知ることができました。そして禅とは何かがわかり坐禅をし始めました。
念のために、認識が迷いの原因だと読むと認識を止めた方が良いと勘違いするかもですが、止めようとすることは不要です。