5悟り

悟りとは何か

 認識により実物を対象化することで実物自体がわからなくなったのですから、悟りとは、認識が一度完全に停止することで、実物自体「ニャー」が露わになるはっきりすることなんです。悟りについて書きますが、読んでいただいても推測想像の範囲になってしまうのですが、それでもお伝えする理由は、私もそうだったんですが、今までお伝えして来て、悟りを様々に思われている方が多く、お伝えしている悟りは、自己を忘ずる=認識が止む=実物自体のことだということを知っていただきたいからです。知っていただくことで、悟りに関する勘違いによる無駄な時間を過ごしていただきたくないからです。そして、考えによる納得ではないということを早く知っていただき、早く坐禅していただき、悟っていただけたらと思うからです。また、お伝えしていることと違うことを求めている方にとっても無駄な時間にならずに済むと思うからです。

 時々、悟りは、思いが止まる(無くなる)ことが、悟りと思っている方がいらっしゃいますが、悟りは、思いが止まることではありません。

 悟りとは、認識が完全に一時的に停止し実物自体が実物自体どおりに露わになる事です。実物自体が実物自体として露わになるには、認識が一旦完全に停止する必要があります。完全に停止しないと、上記「迷いのページ」の真実がわからなくなった原因でお伝えしましたように、「私」がこちらに居て向こうに「実物自体」が有るように思い、事実実物について思ったり考えたりしたことを実物自体と思い込んでしまうという事と私がこちらに居るという思いが終わらないということになります。

 当然なことなのですが、認識が完全に停止している時には、認識が停止しているので、認識が停止しているとはわかりません。また、認識が停止しているので、後から認識が停止している時の記憶をたどろうとしても思い出せません。

(認識が停止する話は、正法眼蔵の現成公案では、「万法ともにわれにあらざる時節、まどいなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし」とあります。)

 認識が完全に停止している時に、例えば、「カチーン」という実物の縁により「カチーン」が「カチーン」どおりに露わになりはっきりします。「カチーン」自体のみということがはっきりし、私が居ないとは、自他が無いとはどうゆうことかもはっきりします。この後に、「カチーン」は竹に石が当たった音だったと理解します。

 この「カチーン」とはっきりした方は、香厳さんと言う方で、一撃忘所知(一撃所知を忘ず)から始まる香厳撃竹という一偈(短い詩のようなもの)を残しています。「カチーン」という一撃で​、すべての分別がすっかり無く、「カチーン」(一撃)のみだった、ということを表しています。

 悟りということがあった時、カチーンのように事実実物が必ず伝えられています。道元さんは「ビシャー」で、道元さんが坐禅している時に、隣で坐禅している修行者が居眠りしていて、それを見つけた師匠の如浄禅師祖が履いていた草履で居眠りしていた修行者の肩を叩いた音です。お釈迦様は「ピカッ」(一見明星)、霊雲さんは「桃の花」、雲門さんは「痛さ」(足を戸に挟んだ痛さ)、無紋さんは「ドーン」(太鼓の音)などが伝えられています。なので、もし悟りを確かめたければ、実物の縁が何だったかを聞いてみたらわかりますね。

 悟りということがあり、(私無く)今の実物のみということがはっきりしたので、伝える時は、今の実物を示すことしかできないのです。なので、倶胝(ぐてい)さんは、誰が何の質問をしても、一本の指を立てて示したんです。臨済さんは一喝(カーッ)したんです。趙州さんは、新しく修行に来た方に修行とはと聞かれると「ご飯を食べたか?」「茶碗を洗ったか?」と聞いています。今の実物しかないので、実物で示すしかできないのです。概念で説明して伝えるということができないのです。

 認識が完全に止む前は、私がこちら側に居て、カチーンという音が向こう側に有るように思っていたのです。そういう、思いだったんです。認識が完全に止んでみたら、「カチーン」のみで、「カチーン」を見る知る私は元々居なかったという事実です。

 ですので、私を無くすのではありません。「カチーン」のみなので、悟ったとか、私が悟ったとも思いません。カチーンだけだと決めた「私」も居ません。決めた私が居ると疑いが出るのですが、決めた「私」が居ないので、本当に「カチーン」だけだったのか?というような疑問が出る余地もありません。

 観察者である私が不在なので、私が消えた、私が抜け落ちた、全ては無と気づいた、事実が何かがわかった、宇宙と一体になった、空だった、というようなことにはなりません。このように何らかの対象を思うのは、認識が完全に止んでいない=私が居るから思えるということになります。

 どんなに素晴らしい体験があっても、認識が一度完全に止まないと、認識の働きにより、物事が連続していると思ってしまうので、より本当の事を求めることは終わらないという事です。認識の働きが一度完全に停止しますが、認識の機能が無くなったら生活できなくなりますので、認識の機能が無くなるわけではありません。

 今の実物自体(前を向いたらそのとおりの内容自体)しか無いという事が明確になったのですから、悟後の修行、さらに良い境地、悟りの浅い深い、徐々に悟りが意識に浸透していく、悟りの境地が徐々に深まっていく、悟りの境地が消え悟る前に戻ってしまう、のようなことは起きえないということになります。

 私自身、カチッ(目覚まし時計の針の音)と実物自体が露わになった時に、真実とは悟りとは私とは自他が無いとは等の求心がぱったりと止んでしまいました。得たものもないので、揺らぐものもありません。「●▲■」。

 また、悟りと呼ばれていることがあった時、それはいまだかつてないものでした。書籍「もう迷うことはない」や「げんにーび」を読み想像推測していた内容とは全く違いました。未だかつてないので、悟りということがあった時、自分ではっきりしたとわかります。

 悟ると何がいいのかって聞かれることがありますが、いい心境というようなことが、不要になることですかね、とお答えすることがあります。修行を始めた頃は、不安の反対の安心状態が永続することを望んでいたように思いますが、あるいい状態が不要になったということです。「にゃー」

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