坐禅とは
禅とは「き」とあると「き」です、「く」とあれば即「く」ですから、坐禅とは、坐っていると成っている実物自体の内容(今これを書いているとピーポーと成っています)のことです。今まで述べてきているように、既に前後なく必ず今の実物自体「け」に確実になるようになっています。
「こ」とあると必ず確実に「こ」ですから、坐禅は難しいという余地も、簡単という余地も無いということです。坐禅中に実行する方法や手段はないということです。したがって、坐禅ができるようになるための能力を身につけ、ある坐禅状態をつくり維持できるようになることではないということです。ですので、坐禅ができているかと自分に問うことは、的外れな問いになります。できているかを問うと、できているか否かが気になります。できているか否かではなく、成ってしまっているのです「さ」。
実物自体は、時間的な前後なく必ず確実に今の実物「し」ですので、実物自体、ある一定状態が続くということはありません。このことを知ることができたら、坐禅中に自分で何か良い坐禅状態を思い描きつくり維持し続けることはできないとわかり、いい坐禅状態をつくり維持しようとは思わなくなります。
以上からわかりますように、正しい坐禅とは今の事実実物「す」のまま(もう既に「す」に成っていますので、更に「す」のままに居ようと努力する必要はありません)に坐っていることです。坐り印を組むことはしますが、自ら考えを使い何かをする必要はないということです。したがって、正しくない坐禅(坐禅ではない別の何か)とは、本気で良かれと思う状態を思考でつくり維持し続けようとすることです。
本気で良かれと思う状態を思考でつくるとは、どのようなことかと言いますと、例えば、勘違いをして、悟るには思いが出ないようにすることだと思い、本気で目の前の物に集中し続け思いを絶対出さないように努力し続けるようなことです。でも、「思いが出てもいいのかなぁ」と自然に思ったら、これは、本気で思いを出ないように努力し続けているわけではありませんので、そのとおりの「思いが出てもいいのかぁ」という実物ですので、そのまま坐っていたらよいということになります。
悟りになるか否かの分岐点
禅とは何かを知ることができると、坐禅が何かがわかります。そして日々坐っていきますね。日々坐っていると、修行上の疑問や悟りについての疑問が出ます。例えば、「坐禅って何だっけ」とか、疑問が出た時、禅とは何のことかを知っていれば、疑問の思い自体「坐禅って何だっけ」は「坐禅って何だっけ」ですから、そのまま坐っているわけです。しかし、禅とは何かを知っていないと、疑問を概念で理解して納得することを繰り返してしまいます。
でも、禅とは何かを重々知っていても、真剣に悟りたい=正しい坐禅をしたいと思っているので、わからないという思いが起きると不安が伴いますね。この不安感を解消したくなって、どうしても考えで納得しようとしてしまうんですね、ここが、悟るか悟らないかの分岐点だなぁと、修行してきて思います。
私自身、修行時代に修行上の疑問が出ると不安になるので、「もう迷うことはない」や「げんにーび」を読んで納得して不安感を解消していました。でもある時、「ニャー」は「ニャー」だと知っているし、読む個所も書かれている内容もわかっているし、このようなことを繰り返してしまっているのもわかっているので、疑問に伴う不安感があってもそのままいようと決めて居たんです。読まないと決めたので、読みたいのを読まずにそのまま坐っているので、不安感と抵抗感みたいなものを感じるのですが、それでもそのまま居たら、知らぬ間に別の思いになっていて、以降は疑問が出なくなったのではなく、疑問があってもそのまま坐っていました。ここからが本当に坐禅だった、本当に今の実物のみで、一切自分から何かをするようなことは本当に止んだと思います。ちなみに、修行上の疑問などは、悟りということがあるまで出る時は出ます。出てもそのまま居たらいいだけです。
もう一つの分岐点は、禅とは何かを知っていても、何か気になることに伴う不快感が出る毎に、不快感を解消するために何かの手段をしてしまう場合です。例えば、坐禅中に「Aさんに嫌われているかも」と思うと、気持ちが不快なので、不快感を解消するために目の前の物に集中し続けようとかすることが何かの手段をすることになるんです。でも「Aさんに嫌われているかも」は「Aさんに嫌われているかも」なので、そのまま居たらいいだけです。葛藤のようなことが起きても、自ら起こそうとしていませんので、そのとおりですので、そのまま居たらいいということです。雨漏りがしているなど生活上の具体的な解決すべきことは、具体的に考え行動し解決すればいいです。思い上の不快は坐って居たら別の思いになり、結果的に不快を伴う思いは知らぬ間に消えています。
自分でする坐禅の確認方法
正しい坐禅(正しい坐禅というより本当は坐禅か坐禅でないかなのですが)か否かを自分で点検するには、坐禅に関する概念で点検するのではなく、直接、今の実物に意識を向け確認することが必要です。例えば、顔を前に向けるとどうなっているか、「あ」と言うとどうなっているかを確認します。「坐禅って何」と思うとどうなっているかを確認します。必ず今の実物に成ると一度確認出来たら、何度も確認する必要はないということになります。
そして、自分で今の実物のみで坐っているとわかる必要があります。言い換えると、自ら本気で何かの状態をつくり維持し続けようとは一切していないとわかる必要があります。
直接実物に意識を向け確認することをしないと、今の様子しかないからこのままでいいんだとか、自然体でいればいいんだ、放っておけるようになればいいんだ、などのようになり、疑問を思う毎に概念での納得が欲しくなります。もしこのようになっていたら、冒頭でお伝えした、禅を知らないままになっている可能性が大きいです。
自分で坐禅を点検する場合、間違った点検方法は、自分が大事にしている概念上の基準から、坐禅中の状態を認識し、基準を満たしているか否かを評価することです。例えば、思いが少ない方がいいという基準で、坐禅中の思いの量を評価して、多いと坐禅になっていない、少ないと良い坐禅だとか、悟ると自他が無いと知り、まだ自他があるから坐禅になっていないなどと評価することです。
独参の必要性
独参が必要な場合とは、禅=事実実物を知らない、わからない。正しい坐禅になっているかわからない。自分で正しい坐禅か否かの点検の仕方がわからない。禅や坐禅に関する疑問が出てくると不安になり、提唱録や動画で確認することを繰り返している。とても気になることがあり坐っているとおかしくなりそうな気がする。などの場合です。これら以外にもあれば、とにかく遠慮なく独参ください。独参の重要性は、正しくない坐禅を正しいと思い数か月坐っていた、のような無駄な時間を費やさない為に重要です。
時々あるのが、久しぶりに禅会に参加され独参され、お聞きすると、良かれと思うことをし続けたというような場合があります。また、もう疑問はありませんが独参に来ましたと言われる方で、坐禅中どうしてますか、とお聞きすると、事実だけに居るようにしていますとか、思いが展開しないようにしていますとか、何らかの努力をされていることがあります。このように、自分では坐禅になっていると思っていても、坐禅になっていない場合もありますので、気軽に独参していただき確認いただけたらと思います。独参された方には、もう疑問が出てもそのままでいてくださいとか、まだ1か月に2回ぐらいは確認くださいとか、必要なことをお伝えします。
坐禅修行の段階ってあるの
「ニャー」は「ニャー」ですから、坐禅=実物に段階はありません。あるのは、禅に関する疑問や坐禅中の疑問が減り修行に関する懸念が減っていきます。でも悟りということがあるまで疑問や懸念は出ることはあります。出てもそのとおりですのでそのまま坐っていきます。疑問や懸念やこれらに伴う不快感がでてもそのまま坐っている。ここからが本当の坐禅修行になっていきます。
多くの方が気になる「思い」について
思っている最中は、思っているとも、思いが有るとも思っていません。思いとして名詞化すると「思い」という実体があるように思ってしまい邪魔なように思ってしまうのです。何々を思っていたと気づいたら、その思っていた思いは終わったということです。考えも、何々を考えていたと気づいたら、その考えは終わったということです。ですので、そのままで良いわけです。
「思いが続いている」と思ったら「思いが続いている」という実物です。繰り返されていると思っても、思いがたくさん出ている、思いの方に行っている、思いに巻き込まれている、と思ってもそのとおりの実物ですのでそのままでよいということです。ですので、思いに行ったら目の前の実物に戻そうとする必要もありません。このように本気でしている方は何かを誤解していますので、冒頭の禅とはからお読みください。または独参ください。
思いも今の思いのみですから、続いている、繰り返されている、思いがたくさん出る、は記憶によるものです。「1」と思い、「2」と思い、「3」と思ったとすると、「1」の時は「1」、「2」の時は「2」なのですが、記憶により、123と思いが連続しているとか、思いがたくさん出ているとかと思うということです。
また、「1」と思い、「2」と思い、「3」と思って、「1」と思ったら、この時の実物の「1」は先の「1」ではなく、今の「1」です。また1があったとか、1が繰り返されているは記憶によるものです。記憶も出た時に出たとおりです。
また、過去に学び大事にしていた観念(基準)で知らぬ間に坐禅中の何かを判断していたり、過去に学んだ瞑想方法なども知らぬ間に行ってしまっていることがありますが、本気でしようとしていませんので、そのままでよいです。
どうすると坐禅ではなくなるか集
今までお伝えしましたように、禅とは何かを知ることができれば、下記のような不要なことはしようとは思わないはずです。正しくない坐禅=坐禅以外の何かは、坐禅中に本気で良かれと思う状態を思考でつくり維持しようと努力し続けていることが、不要なことの要点です。
- 本気で坐っている状態を観察しようと努力し続けている。
- 本気で思いを流そうと努力し続けている。
- 本気で思いが出ないように努力し続けている。
- 本気で放っておけるような状態をつくり維持する努力をし続けている。
- 本気で実物に集中しようと努力し続けている。
- 本気で目の前の事実に親しくいよう(参じよう学ぼう)と努力し続けている。
- 本気で実物だけになるようになるために思わないように努力し続けている。
- 本気で自然体でいるあるがままでいようと努力し続ける。
- 本気で自分を立てない(見ている人が居ない)状態をつくろうと努力し続けている。
- 本気で認識が働かないように努力し続けている。
- 本気で何かに気づくことを増やそうとし続けている。
- 本気で今起きていることを観ようと努力し続けている。
禅=事実実物を知らないと起きそうな勘違い
- 執着や固定観念など何か不要なことを無くしてからでないと坐禅ができないと思っている。
- 気づきが多い方が坐禅が進んだと思っている。
- 思いが少ない方が坐禅になっていると思っている。思いが多いと坐禅になっていないと思っている。
- 望む心境になっていないと坐禅ができていないと思っている。望む心境になっていると坐禅ができていると思っている。
- 只管打坐はすぐにはできないのでそのための訓練が必要だと思っている。
- 集中できていなくて、意識があちこち行くと坐禅になっていないと思っている。など。
悟りが起きないと概念ではなく事実として明確にならない事を納得しようとしない
以下のようなことは、考えでは解明、納得できないことですので、解明納得は止めて坐禅してくださいと思います。
- 私無く実物しかない。
- 自他がない(私が居ない)。
- すべて自分の様子。
- 実物自体が自分。など。
坐禅の姿勢 坐る時のこと
坐禅は、坐ろうと思って坐り、姿勢を整え、目を自然に開け、印を組む、で終わりです。
姿勢は、坐りやすい楽な姿勢で、体に負担にならない姿勢をします。椅子でもよいです。
具合が悪い時は横になっていてもよいです。上に顔を向けると天井のとおりの様子です。
目を自然に開け、法界定印(ほっかいじょういん)を組みます。
目は自然に開けて、瞬きも自然で通常と同じです。半眼にしよう、見開いていようは不要です。
視線の先は、自然に行く方向、落ちる所でよいです。1メートル先を必ず見続ける、視線を45度下に向けることは不要です。
目を開け印を組むことで、最低限の意識を保つことになり、眠気防止になります。
脚は、椅子以外の場合、結跏趺坐、半跏趺坐、あぐらなどにします。
坐禅中のこと
- 姿勢が崩れたら整えます。
- 組んでいる脚が痛くなったら組み替えます。
- 姿勢が崩れてしんどくなったら姿勢を整えます。
- 目がしばらく閉じていたと気づいたら開けます。印が崩れていたと気づいたら組み直します。眠いとこうなりますね。
- 眠気が起きたら、我慢できればそのまま、寝てしまいそうなら経行したり顔を洗ったりして眠気を覚まします。寝不足や体が疲れていることによる眠気なら10分~20分くらい寝ます。
- 身体は同じ姿勢ですと凝りますので、体の要求に応じて、ストレッチしたり経行したりします。また、エコノミー症候群にならないようにご注意ください。
- 目はモノを見ようとすると焦点が合うようになっていますので、坐禅中は何かを見ようとしていないので、焦点がボケてきます。ボケたら、ボケた様子になります。ボケた様子は、ボケた様子なので、そのままでよいわけです。目が疲れたら、焦点を合わせ直した方が良ければ合わせ直します。合わせ直したら、焦点が合った様になります。
1日どのくらいの時間坐ればよいか
各自スケジュールが違うので、何時間以上というようなことは言えませんが、各自のスケジュールで可能な限り坐りましょうということになります。修行されている方は、仕事を効率的に終わるようにして坐る時間をつくったり、家族の協力を得たりなどされて坐る時間づくりに努力されています。
まとまった時間坐るのと仕事などが一段落し、何かを次に行うまでの合間に坐ります。40分坐らないと意味がないと勘違いされている方が居ますが、合間があれば、1分でも2分でも10分でも坐ります。例えば、会社のデスクとかで坐るとかも可能です。会社とかの場合は、何か怪しまれるようなら、印を組まなくてもいいです。
ちなみに修行時代、電車、風呂、トイレ、待ち合わせ、温泉に行った時も露天に浸かり坐ってました。
坐っている時の様子(例)
坐っていると例えばですが、以下のような内容です。
・・は認知が起きる前の時の様子を表しています。例えば“お腹すいた”と思っていた、と認知する前です。認知する前の様子は知らない知り得ない様子です。
カタッ(物音)・・足が痛い・・坐るのしんどいなぁ・・ネコだ・・「床自体の内容」・・悟れるのかなぁ・・仕事のこと考えていた・・「カタッ(音)」・・時間が短い・・床があった・・お腹すいたなぁ・・立ちたいなぁ・・「床の様子」・・明日は仕事で出張だ・・「ピンポーン(チャイム)」・・坐禅って何だっけ・・飽きて来たなぁ・・思いがたくさん・・静かだなぁ・・今昨日のことを思っていた・・思いがぐるぐるするなぁ・・よく座れていない気がするなぁ・・眠いなぁ・・「足の痺れ」・・中々悟んないなぁ・・修行方法が間違ってるのかなぁ・・「ブーン(蚊)」・・
坐禅以外の生活での修行
坐禅と坐禅以外と思ってもいいですが、今の実物は消えません。必ず今の実物になっています。坐禅は坐っている時の実物でしたね。お茶碗を洗っていたら洗っている実物自体です。茶碗洗い禅ということです。お茶碗を洗っている時に、茶碗、泡、スポンジ、自体で、思ったり、考えたりしていたらそれ自体ですので、目の前の事実だけに成ろうとして、洗っている対象に集中し続けて思ったことや考えたことを無くそうとする必要はありません。
例えば、商談をしていて、相手が「これ10円値上げしてくれませんか」とそのとおりのことになっています。商談をしていても、思ったり、考えたりします。商談に必要な思いや考えは使います。商談に不要な思いや考えは、無くそうとするなどどうこうすることなく別の今の思いになっています。「おはよう」とあれば「おはよう」です。
空き時間があれば時間の長短関係なく、その場で、坐れるかぎり坐ります。姿勢はその時できる姿勢でします。電車で立っているなら、立っている時の実物は、乗客の姿、次は東京、ガタン、車窓風景などです。トイレ、湯舟でも坐禅になりますね。
また、思考では結論が出ない事については、思っても放っておく、放っておくというのは、放っておこうとすることではありません。何かしていたら自然に今の思いになっています。青信号に向かえば青信号の実物です。